【伊藤詩織裁判】概要と詳細
「伊藤詩織裁判」とは、ジャーナリストの伊藤詩織氏が、元TBS記者の山口敬之氏に対し、自身が受けたと主張する性暴力に関する損害賠償を求めて提起した民事訴訟を指します。この裁判は、日本における性暴力に関する法制度や社会の認識、そしてジャーナリズム倫理など、多岐にわたる議論を巻き起こしました。本記事では、この裁判が具体的にどのような内容で、なぜ民事訴訟となり、どのような過程を経て、最終的に裁判所がどのような判断を示したのかを、詳細かつ具体的に掘り下げていきます。
この裁判は何に関するものか?
この裁判は、2015年4月4日から5日にかけて、当時山口敬之氏と会食した伊藤詩織氏が、意識のない状態で同意なく性的な行為を受けたと主張し、これによって精神的苦痛を被ったとして、山口氏に対して民法上の不法行為に基づく損害賠償を求めた民事訴訟です。
具体的には、伊藤氏側は、山口氏が泥酔して意識を失った伊藤氏に対し、性的暴行を加えたと訴えました。これに対し、山口氏側は、性的な行為はあったものの、それは伊藤氏の同意に基づくものだったと主張し、性的暴行の事実を否定しました。
なぜ民事裁判となったのか?
通常、性犯罪は刑事事件として扱われます。しかし、このケースではまず刑事告訴が行われたものの、東京地方検察庁は山口氏を嫌疑不十分で不起訴処分としました。その後、検察審査会も不起訴相当と判断し、刑事手続きによる処罰の道は閉ざされました。
こうした経緯から、伊藤氏は刑事司法では救済を得られないと判断し、民事訴訟を通じて自身の被害を訴え、山口氏に責任を問うことを選択しました。民事訴訟は、刑事訴訟とは異なり、個人の権利侵害に対する損害賠償を求める手続きであり、立証の基準も刑事訴訟(合理的な疑いを差し挟む余地がない程度)より緩やか(優越的な証拠があるか)です。
伊藤詩織氏の訴えと山口敬之氏の主張
伊藤詩織氏の主張
伊藤詩織氏は、事件当夜、山口氏との会食後に泥酔状態となり、意識が途切れ途切れになったと訴えました。ホテルに連れ込まれ、意識がはっきりしない中で性的行為が行われたこと、その行為には一切同意しておらず、酩酊・昏睡状態であったことを主張しました。これにより、著しい精神的苦痛を受け、その回復のために損害賠償が必要であると訴えました。当初、慰謝料などとして1100万円の損害賠償を求めて提訴しました。
山口敬之氏の主張
山口敬之氏は、伊藤氏の訴えを全面的に否定しました。ホテルに行ったことは認めたものの、伊藤氏も同意の上で同行したと主張。ホテルでの性的な行為についても、酩酊状態ではあったものの、意識があり、同意があった上でのものだったと反論しました。むしろ、自身の名誉が傷つけられたとして、伊藤氏に対して慰謝料などを求める反訴を起こしました。反訴で求めた金額は1億3000万円でした。
裁判の主な争点と証拠
この裁判の最大の争点は、「性的な行為に同意があったかどうか」でした。特に、伊藤氏が主張する「意識のない状態での行為」であったかどうかが鍵となりました。
裁判では、以下のような証拠や証言が提出されました。
- 当事者双方の証言: 事件当夜の状況、その前後のやり取りに関する詳細な証言。
- 客観的な証拠:
- ホテル内の防犯カメラ映像(ホテルへの入退出の様子、伊藤氏が支えられている様子など)。
- 事件前後のSNSやメール、メッセージのやり取り。
- 医療機関での診察記録や医師の証言。
- 伊藤氏の衣服。
- 専門家の証言: 酩酊状態が意識や判断能力に与える影響などに関する専門家の意見。
これらの証拠を基に、裁判所は伊藤氏の酩酊・昏睡状態がどの程度であったか、その状態での同意は有効であったか、そして山口氏がその状態に乗じて行為に及んだかなどを判断しました。
第一審(東京地方裁判所)の判決
2019年12月18日、東京地方裁判所(裁判長:鈴木昭洋裁判官)は、伊藤詩織氏の訴えを認め、山口敬之氏に損害賠償の支払いを命じる判決を下しました。
判決は、提出された証拠や証言を詳細に検討した結果、伊藤氏が酩酊により意識を十分に保てず、同意能力がない状態であったと認定しました。その上で、山口氏が、この状態の伊藤氏に対し、同意がないまま性的な行為に及んだと判断しました。これは民法上の不法行為(性的自由・自己決定権の侵害)にあたると結論付けました。
判決は、山口氏の「同意があった」という主張を退け、伊藤氏が訴えた性的暴行の事実を広く認めました。山口氏からの反訴についても棄却しました。
損害賠償額については、精神的苦痛の大きさなどを考慮し、伊藤氏が求めた額よりは減額されましたが、330万円の支払いを山口氏に命じました。
この第一審判決は、刑事では不起訴となった事案について、民事では被害を認定し加害者に賠償を命じた点で、大きな注目を集めました。
控訴審(東京高等裁判所)の判決
第一審判決に対し、山口敬之氏は判決を不服として東京高等裁判所に控訴しました。
2021年6月8日、東京高等裁判所(裁判長:中山孝雄裁判官)は、山口氏の控訴を棄却し、第一審判決を支持する判決を下しました。
高等裁判所も、第一審と同様に、伊藤氏が事件当夜に意識を十分に保てない状態であったと認定しました。その状態での性的行為は、伊藤氏の有効な同意があったとは言えないと判断し、山口氏による行為は不法行為にあたると結論付けました。
高裁判決は、第一審の事実認定および法的判断を基本的に追認しました。提出された新たな証拠や主張も検討しましたが、第一審の判断を覆すには至らないとしました。
損害賠償額についても、第一審で命じられた330万円の支払いを改めて山口氏に命じました。山口氏の反訴についても、改めて棄却しました。
これにより、性的被害の認定と山口氏への330万円の損害賠償命令が、高等裁判所でも維持されることとなりました。
最高裁判所の判断
東京高等裁判所の判決に対し、山口敬之氏は上告受理申立てを行いました。
2022年7月8日、最高裁判所第二小法廷(裁判長:尾島明裁判官)は、山口氏の上告受理申立てを退ける決定をしました。
最高裁判所が上告を受理しない、または上告を棄却する決定を下した場合、その前の審級(この場合は東京高等裁判所)の判決が確定します。
この決定により、東京高等裁判所による「山口敬之氏に330万円の損害賠償支払いを命じる」との判決が最終的に確定しました。
確定した損害賠償額はいくら?
最高裁判所による上告不受理決定により確定した、山口敬之氏が伊藤詩織氏に支払うべき損害賠償額は、330万円です。
この金額は、第一審の東京地方裁判所が認定し、控訴審の東京高等裁判所が支持・確定させたものです。伊藤氏が当初求めた1100万円よりは少ない金額ですが、裁判所が伊藤氏の受けた精神的苦痛に対する賠償として相当と判断した額です。
関連する場所はどこ?
この裁判に関連する主な場所は以下の通りです。
- 事件が発生したとされる場所: 東京都内にあるホテル(具体的なホテル名は報道されていますが、ここでは「都内のホテル」と記載します)。
- 第一審を行った裁判所: 東京地方裁判所。
- 控訴審を行った裁判所: 東京高等裁判所。
- 最終的な判断を示した裁判所: 最高裁判所(東京都千代田区)。
裁判の経過と判決に至るまで
裁判が提起されてから最高裁で確定するまでの大まかな経過は以下のようになります。
- 事件発生(2015年4月): 伊藤氏が被害を受けたと主張する出来事が発生。
- 刑事告訴・不起訴(2015年-2016年): 伊藤氏が刑事告訴を行うも、東京地検が嫌疑不十分で不起訴処分とする。
- 民事提訴(2017年9月): 伊藤氏が東京地方裁判所に山口氏を提訴。
- 第一審審理(2017年9月-2019年12月): 東京地裁で証拠調べや証人尋問が行われる。
- 第一審判決(2019年12月18日): 東京地裁が伊藤氏勝訴、山口氏に330万円の賠償を命じる判決。山口氏が控訴。
- 控訴審審理(2020年-2021年6月): 東京高裁で審理が行われる。
- 控訴審判決(2021年6月8日): 東京高裁が山口氏の控訴を棄却、第一審判決を支持。山口氏が上告受理申立て。
- 最高裁決定(2022年7月8日): 最高裁が山口氏の上告受理申立てを不受理とする決定。東京高裁判決が確定。
このように、「伊藤詩織裁判」は、性暴力被害を民事訴訟で訴え、三つの段階の裁判を経て最終的に被害認定と損害賠償命令が確定した、日本における性暴力に関する裁判事例として重要な意味を持つものとなりました。